大判例

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最高裁判所大法廷 昭和23年(れ)1544号 判決

主文

本件上告を棄却する。

理由

辯護人田中幾三郎の上告趣意について。

原判決が、被告人の原審公判廷における自白を唯一の證據として、本件賍物牙保の事実を認定したことは、所論のとおりであるけれども、右のごとき自白は、憲法第三八條第三項にいわゆる自白にあたらないことは、當裁判所の判例として示すところである。(昭和二三年七月二九日、同年(れ)第一六八號大法廷判決)よって、論旨は理由がない。

以上の理由により舊刑訴法第四四六條に從い主文のとおり判決する。

右は真野、齋藤各裁判官の補足意見及び塚崎、沢田、井上、栗山、小谷、穂積各裁判官の少數意見を除き裁判官の一致した意見である。

齋藤裁判官の補足意見及び塚崎、沢田、井上、栗山、小谷各裁判官の少數意見については前掲大法廷判決に記載のとおりである。

穂積裁判官の少數意見は次のとおりである。

憲法第三八條第三項の「本人の自白」には公判廷における自白を含まない、というのが本裁判所の判例になっているのであって、その判決理由は昭和二三年(れ)第一六八號同年七月二九日言渡大法廷判決に詳細に説き示されているが、右の判決については塚崎、沢田、井上、栗山、小谷諸判事の少數意見があったのであって、右判決にそれぞれ記載されている。右の判決は私の就任前であって、その後同趣旨の判例が繰り返されたのであるが、今昭和二三年(れ)第一五四四號事件の判決に當り、前判決の判決理由補足意見及び少數意見を對照檢討して、私は少數意見に参加すべく決意したのである。その結論の理由は大體において前記各判事の意見と符合するから、こゝにそれを援用するが、しかし私の結論はたまたま本事件に遭って初めて思いついたものではなく、実は私のかねての持論だったのである。一二年前すなわち昭和一二年八月二〇日、私はいわゆる帝人事件の特別辯護人として、東京地方裁判所の刑事法廷においてこの議論を主張したのであって、その際は被告人がわの辯護人としての議論であったが、私としては被告人のためにする我田引水論でない学者としての純理論のつもりであった。又帝人事件における當面の問題は檢事及び豫審判事に對する自白についてであったが、私は公判廷における自白をも含めて、自白そのものの問題として論議したのである。私はまずハンス・グロースの「犯罪心理学」に『刑事家は自白をもって最終と爲せども裁判官はさらにそこより出発せざるべからず。』『自白は證據の手段にして證據にはあらず。』とあるのから議論を起して、ステファンの「證據法論」(Stephen,Digest of Law of Evidence,12,ed,1936,p.26)ウイリアムスの「自白の現代的考察」(Ernest E.Williams,The Modern View of Confessions,Law Quarterly Review vol.30p.292)等の文献における同趣旨の議論を指摘したが、私が特に力を入れて詳細に引用したのは、帝人事件起訴當時の檢事総長であり引續き司法大臣になった法学博士林頼三郎氏の著書「刑事訴訟法要義」総則下巻一頁以下であった。右は大正一一年公布の當時における新刑事訴訟法の註釋書であって、翌大正一二年の出版であったが、林博士はその書中に『被告人の刑事訴訟法上の地位に付ては幾多の變遷あり。其の第一期は單に事実上取調の物體と認むるのみにして、何等法律上の地位を認めず、第二期は被告人を證據方法と認め、被告人を追究推訊し、以て被告人の口より證據を得んことを期したり。第三期は被告人に證據方法たる地位と訴訟當事者たる地位とを認め、一方に於ては被告人を證據を得るの手段に供することを認めて、此の目的を以て被告人を訊問し、被告人に真実を供述するの義務を認め、他方に於ては被告人に防御權を認めて、その權利利益を保護せしむる爲訴訟行為を爲すことを得せしむ。而して両地位中、漸次訴訟當事者たる地位に重きを置き、證據方法たる地位は僅に認めらるゝに至る。第四期は被告人に訴訟當事者たる地位のみを認めて、證據方法たる地位を認めず、即ち被告人訊問は公訴事実に對する辯解を爲さしむるを目的とし、證據を得るの目的を以て陳述を求むることを爲さざるものとす。之を被告人の地位に対する進化史の大要とす。而して舊法に於ては被告人に證據方法たる地位と訴訟當事者たる地位とを認めたりと雖、本法は専ら訴訟當事者たる地位を認め證據方法たる地位は之を認めざることと爲し、被告人の地位に對し一大革新を施したり』と論じたのである。しかし林博士のこの議論は當時にあっては著名刑事訴訟法学者中ほとんど唯一の少數説だったのであって、他のすべての学者は、被告人は訴訟當事者にして同時に證據方法なり、と論じた。たとえば小野清一郎教授著「刑事訴訟法講義」(三〇二頁)には、直接に林博士の説を指摘し、それが現行法論として採るべからざる旨を力説してある。これに對して私は、林博士の議論は現行制度の説明としては行き過ぎているとしても、正に刑事訴訟法の進むべき方向を指し示すものである、と論じたのである。そして私のこの豫言が適中したと申しては過言かも知れぬが、今回の新刑事訴訟法第三一九條第二項は果然「公判廷における自白であると否とを問わず」と明言するに至ったのである。そして私は元來がその意見なのであるから、右の新規定は憲法第三八條第三項及び刑事訴訟應急措置法第一〇條第三項の變更とは考えずしてその解釋と見るのであり、從って新刑事訴訟法施行前の事件についても、公判廷における本人の自白を唯一の證據とすべきでないと信ずるのである。なお法律の解釋が文字解釋のみを事とすべきでないことはもちろんであるが、憲法民法刑法というごとき国民直接の行爲規範たる根本法にあっては、出來得る限り讀んで字のごとく解釋すること、すなわち輕々に擴張解釋又は縮小解釋をしないことが、国民の法律生活を安定せしめるゆえんであるから、その意味からも、憲法の文面には無條件に「自白」とあるがそれは公判廷における自白を除外する意味である、というごとき縮小解釋は、そう解釋せねばならぬ特に有力な理由のない限り、避けたいものと考える、ということをも申し添えたい。

裁判官真野毅は、左のとおり多數意見を補足する。

多数意見を補足する意味において、いささか穂積裁判官の少數意見について考えてみたい。同裁判官は、「その結論の理由は大體において前記各判事の意見と符合するから、ここにそれを援用する」と言って、互に矛盾をも含み異った内容をもつ各意見を鵜飲み援用されただけでは、真の理據がどこにあるか、全く不明であることは甚だ物足りなく感じた。

さらについで物語っておられるところは、相當言葉數も多く博引ではあるが盛られている中味は乏しく、しかもその真意はやや捕捉し難い。ハンスグロースに從って「自白は證據の手段にして證據にはあらず」とするのであれば、それは舊刑訴法にも新刑訴法にも憲法にも反することは、言うまでもない。自白が、處罰の必須要件であった時代から、自白強制の弊を除くため自白を要件としない時代に移り、さらに自白の證據價値としての評價が低下して來たのは歴史の実證するところであるが、「證據にはあらず」として輕く排斥し去るわけには仲々ゆくまい。米国の各州でも、現に公判廷における自白と類似の有罪答辯だけで八〇パーセントないし九〇パーセント位の事件が、處罰されている実情を直視するがよい。そして、穂積裁判官が特に力を入れて引用したと自らいわれる林氏の著書の中にも、「刑事訴訟の大眼目は実質的真実の発見に在り。而して真実を知る者は被告人を第一とするを以て、被告人にしてこれを告白することは、刑事訴訟の大眼目に適應するものなり」と述べている。林氏が、被告人に證據方法たる地位を認めないというのは、被告人は供述の義務がなくすなわち黙秘の權利があるという程度の意義を有するに過ぎない。だから、林氏は、「被告人は證據方法として認められざること前述の如しと雖も、被告人が訊問に對して爲したる供述及び之を記載したる書類は證據と爲るものなり」と言い、またはっきりと「證據方法たらずとの故を以て、其の供述が證據と爲らざるものと誤解すること勿らんことを要す」とまで斷言している。それはさておき、最後にしかしながら実は私をして卑見を述べしむる動機となった點は、同裁判官が「憲法民法刑法というごとき国民直接の行爲規範たる根本法にあっては、出來得る限り讀んで字のごとく解釋する」をよいとしている法律解釋の根本問題についてである。そして、これはわれわれ裁判官にとって日常の行住座臥において最も緊要な問題であり、これを詳しく論じたら、立ちどころ優に一巻の書をなす程であろうが、今ここには極めて荒削りに大綱だけを述べるに止めたいと思う。まず、刑法の領域では、一七八九年のフランスの人權宣言この方一般に諸国において罪刑法定主義が行われており、或る犯罪行爲に對する刑罰を法律に定めていない他の行爲に科することは、これらの二つの行爲の間に類似性がある場合においても許されないとされている。すなわち、刑罰法規の解釋に當っては、罪刑法定主義の鉄則のためにその類推適用は許されないと一般に解せられている。それでも、この領域においても、或る限度の自由法論の主張は常に存するのである。しかのみならず、この領域でも一とたび罪刑法定主義が放棄されると、刑罰法規の類推適用は當り前のこととして行われるのである。その最も適切な事例は、ナチスの刑法改正に現われている。すなわち、一九三五年六月二八日のナチス刑法第二條は、「法律が處罰し得べきものと宣言した行爲、又は刑法の根本精神及び健全な国民感情によれば處罰に値いする行爲を犯した者は、處罰せられる。この行爲に對して一定の刑法規定が直接適用せられない場合においては、この行爲は、その根本精神が最もよくこれに該當する法律に從って處罰せらる」と規定し、獨裁強化のため罪刑法定主義を一擲し刑罰法規の類推適用による法の創設を認めたのである。さらに刑事訴訟法を改めて、「健全な国民感情によれば處罰に値いする行爲が、法律において處罰し得べきものと宣言されていないときは、檢事は、刑法規定の根本精神が當該行爲に該當するや否や、並びにこの刑法規定を類推適用することによって正義の貫徹に資することを得るや否や審査することを要する」(刑訴第一七〇條a)と規定し、檢事に對して刑罰法規の類推適用を審査すべき義務を課したのである。またさらに、「被告人が、健全な国民感情によれば處罰を受けるに値いするが、しかも法律において處罰し得べきものと宣言されていない行爲を犯したことが、公判の結果判明するときは、裁判所は、刑法規定の根本精神が當該行爲に該當するや否や、並びにこの刑法規定を類推適用することによって正義の貫徹に資することを得るや否やを審査することを要する」(刑訴第二六七條a)と規定し、裁判所に對しても刑罰法規の類推適用を審査すべき義務を課したのである。かくて、刑罰法規の類推適用は檢事に對しても、裁判官に對しても、義務としての一面が積極的に強調せられているのである。そしてさらに、「ライヒスゲリヒトは、最高のドイツ裁判所として、法律の解釈に當っては、国政を革新することによって生じた人生觀及び法律觀の變動が斟酌せられるように貢献する任務を有する」とされたのである。由來、苛政は虎よりも猛けしと言われる。人類多年の苦闘によってかち得た貴重な罪刑法定主義の財寶は、鼻緒の切れた破れ草履のように、いともた易く打ち棄てられて、「刑罰法規の根本精神」とか「正義の貫徹」とかいう大きいがしかし甚だ空漠たるしかも実際の適用に當っては何れにでも決め得るような觀念でナチ一色にすべては塗りつぶされていったのである。獨裁の弊、ここに到って極まると言うべきではないか。ともかくかかる事例に徴しても、刑法の領域において一般に類推適用が許されないのは、罪刑法定主義の堅牢な城壁があるからに過ぎないことが、知られるのである。これに反して他の法律の領域においては、それが「国民直接の行爲規範たる根本法」であろうとなかろうと、否むしろ根本法であればある程、法文の字句の末に捉われることなく、(それは法律の解釈に理由なく字句を無視又は輕視してよいという意味ではない)深い思索と廣い実證に基づく真の合理的な法律解釋が必要とせられる。「法律は言葉ではなく実體である。法律は單なる形式の推理において発見會得せらるゝものではなく、その真の実質の探究において把握理解せらるべきものである。そして、法制全體を廣く體系的に究明することによって、はじめて事態の実情に合致する正しき法律解釋は生れ出ずるのである。」これは、昨夏私が起草した富山縣知事當選訴訟事件の判決(昭和二三年(オ)第九號同年九月二四日大法廷判決)の冒頭において、述べておいた一節である。民法の分野においては、自由法論が廣く最も活発に展開せられ、固定した法文を流動變動する社會情勢に適合せしめるためには法の類推解釋ないし合理的解釋が必要とせられ、かつ日常普ねく用いられていることは、何も今更多言を費すを必要としない。さて次に、最も重要なのは国の最高法規である憲法の解釋の問題である。そして、これこそは実に最高裁判所の使命の中核に觸れるかりそめにできない切実な問題である。同裁判官は、憲法は出來得る限り讀んで字のごとく解釋するがよいと主張する。これは、あるいは俗耳には入り易い、たとえば甘い藥のようなものであるかもしれない。しかし、これは決して良藥ではあり得ないと私は信ずる。憲法は、決して固定したものではなく、一定不動のものでもない。それは、常に時代と社會情勢に應じて變化しつゝある、高度の柔軟性と弾力性をもった道具であり、又しかあらねばならない。だから、憲法を形式的・文字的・抽象論理的・静態的に解釋するは甚だ危險である。すべからく歴史的・社會的・現実的・動態的・價値論的に把握して解釋すべきものである。米国憲法が、国情の幾多の變転にもかかわらず、長きに亘り今日においてなお脈々として活きて行われているのは、かかる実證的な解釋を主調とする判例憲法に負うところが、甚だ多いのである。されば、つきつめると、裁判官の智識・經驗・教養・能力・才幹・識見・感覺・等々の統一した総合、言いかえれば裁判官その人の法律觀・人生觀・世界觀・社會哲学をとおした價値判斷によってのみ、現実に憲法解釋は行われていくべきものである。オリバー・ウエンデル・ホームズが、深い学識と長い司法的經驗を集約歸納して、憲法の解釋は、結局直觀・インテユイションであると喝破しているのは、まことに達人の至言であり、けに世に類なき偉大な法曹の偉大な言葉といわねばならない。憲法は、その文字を讀むことによって會得されるものではなく、実に人生を讀むことによってはじめて真に體得されるものではあるまいか。思わず長談義となったが、要するに私は、罪刑法定主義の行われる刑法は別として、憲法・民法のごとき根本法を根本法たるが故に、出來る限り讀んで字のごとく解釋すべしとする見解には、到底賛同することができない。私は却って憲法・民法のごとき根本法は根本法たるが故に一層文字の末に捉われることなく、前述したような厳しい実證的な態度をもって解釋をするのが正當でありかつ必要であると信ずる。

(裁判長裁判官 塚崎直義 裁判官 長谷川太一郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 霜山精一 裁判官 栗山 茂 裁判官 真野 毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 齋藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介 裁判官 穂積重遠)

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